第2章 他人の気持ちを知る
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はっきりした社会的本能を持つ動物は何であれ――ここで言う社会的本能とは親として、子としての情愛も含まれるが――知力が十分に発達すれば、あるいは人間のようにそれに近い状態になれば、かならず道徳観念、言い換えれば良心を持つようになる。 (チャールズ・ダーウィン) 冷たい水のなかの温かい血
海獣に思いやりがあり、助け合っているという逸話は、古代ギリシャの昔からすでにあった 銛や網で仕留めたイルカを仲間のイルカが救おうとしたという話も聞く
マッコウクジラの群れが見つかったら、そのうちの一頭に銛を打ち込むだけで、群れ全体が捕鯨船を取り囲むので、一頭ずつ仕留めていけば良い ここで「同情」という言葉を使ってもいいものだろうか とりあえずいまは「救助行動」という言い方にしておこう 自分の子以外の個体が危険や苦難に直面したとき、手を差し伸べ、気を配り、救済を与える行動を指す
雌イヌが鳴いている人間の子供を守るようにそばに付き添っていれば、それは救助行動 ただし自分の子イヌの鳴き声に反応したときは、それは養育 同情とは感情移入の最も重要なもの
他人の感情や状況に、当人であるかのように影響を受けることを感情移入と呼ぶ 心理学者や哲学者はそうした能力に重きを置いているため、最近では「同情」「憐憫」「哀れみ」といった言葉に代わって「感情移入」が多く使われるようになっている
しかし残念なことに、これでは意味があいまいになる
他者の痛みを認識できる能力と、そのために何かせずにはいられないという衝撃が区別できなくなる
拷問もそうすれば相手が痛み苦しむことを知っているからやるが、それは同情とは呼ばない
同情の場合は、他者の置かれた状況に対する感受性に、その他者への関心が伴う
心理学者ローラン・ウィスペ「感情移入の目的は理解することであり、同情の目的は他者の安寧である」 感情移入が底流にあるかどうかは別にして、動物の救助行動は人間の同情と同じ役割を持っており、また個体間の結びつきの強い種にしかない
ここで言う結びつきとは、魚やチョウが群れているようなものではなく、哺乳類や鳥類の個体同士の絆や愛情、仲間意識を指す 方向感覚を失うなどして苦境に陥った仲間を見捨てることができず、集団で浜辺に打ち上げられたりするから
こうした行動はその群れの全滅に結びつくことが多いが、アメリカの海洋学者ジェームズ・ポーターは例外も知っている 1976年、30頭のシャチの群れがフロリダ沿岸の島に打ち上げられた(自発的に波打ち際に留まった) たまたま干満差が小さかったので、シャチたちはいつでも海に戻ることができたが、3日後に一番大きい一頭が死ぬまで浅瀬を漂い続けた
リーダー格のオスのシャチは病気で、右耳から血を流していた
他の14~15頭が楔形に並んで、病気のシャチを守っている
チーチー、キーキーという鳴き声
ポーターはシュノーケルをつけて海中にもぐり、群れに近づいた
すると一番外側にいたシャチがポーターを浜辺に運んだ
同じことが三度繰り返され、反対側から近づいても同じ
シュノーケルを外すとシャチはポーターへの興味を失った
シュノーケルの音が、彼らの通気孔が詰まったときの音に似ていて、ポーターが助けを求めていると思ったのだろう
リーダー格だった体長6メートルの雄が死ぬと、シャチたちは楔形の隊列を崩し、尻下がりに低くなる甲高い鳴き声をあげながら外洋に向かって進み始めた
死んだシャチを解剖したところ、耳から大きな寄生虫が見つかった シャチは超音波を発し、その反射で自分の位置を確かめる 寄生虫のせいでその機能が損なわれ、充分に食物が摂取できなくなったのだろう
もちろんこの逸話はシャチが集団で浜に打ち上げられる謎を解明するものではないが、シャチの個体同士の結びつきがいかに強いかを知ることはできる
愛着と絆が救助行動の根本にあるとすれば、親の子育てこそ究極の進化の源だろう 世話を求める者と世話をする者という、親と子の心温まるやりとりがひとたび進化を始めれば、それは血縁関係にない大人同士も含めたあらゆる関係に拡大される
だらこそ多くの鳥類では、おとなの雌がくちばしを大きく広げ、羽をばたつかせてつがいの相手に食物を所望する
その動作は、腹をすかせたヒナとまったく一緒
子育ての行為が大人同士の関係に吸収される例は、人間の場合も明らか
アイブル=アイベスフェルトはキスにも言及しており、親が一度咀嚼した食物を口移しで子どもに与える行為に由来していると考えている
食物のやりとりを伴わないキスは、人間の普遍的な愛情表現
動物行動学者によると「いっぽうが赤ん坊のように口を開けて受け入れ側の役割を演じ、もう一方が食物を渡すかのように舌を動かす」点で、キスと口移しの餌やりは似ているという
たしかにチンパンジーは子どもに口移しで食物を与えるし、おとなどうしでキスもする
養育から愛着へ、さらに救助へとどう移行していったかはまだ充分にわかっていないかもしれないが、連続性が存在することに異論の余地はないだろう
親が子を養育すると同時に、大人同士も高度な互酬性を続けながら進化していた結果、海に生息する哺乳動物は魚とは一線を画する態度を見に付けた
ハンディキャップへの特別な配慮
ゴリラが檻の柵に腕がはさまったふりをして入ってきた飼育係に腕を回した
動物が相手をだました実例(大型類人猿がからんでいるものが多い)については、作為と計画の兆候を詳しく調べるのが普通だが、この逸話のような場合にはもう一つの側面がある ゴリラは、飼育係が心配してやってくることを予測していたはずだとへディガーも指摘している
支援の性向を全く持たない動物が、援助行動を予測してそこにつけこむことなど可能だろうか
類人猿からみて、人間には驚くべき行動がいくつもある 困っている人がいれば助けてやるが、その性向を相手の不利益になるように利用することもある
もちろん後述するように、類人猿にも同じような性向はあるし、そこにつけこんだ欺瞞は人間と類人猿のあいだだけにとどまらない アーネム動物園の最長老の雄のイエルーンが、下剋上を試みた若い雄との戦いで手を負傷した
傷は深くなさそうだったが、イエルーンは一週間も手を引きずって歩いていた
イエルーンはライバルの若い雄が見ているときだけ、そうやることが判明した
若い雄の前を通って彼の背後に回り込むようなときは、最初はずるずると哀れっぽく手をひきずるが、雄の目が届かなくなった途端、全く正常な歩き方に戻った
そうすることでライバルの雄たちによる攻撃が抑制されるからだろう
人間を含む霊長類は、驚くほど速い段階で救助の性向を身につける
しかし子どもは自己中心的であさましく、罪深い存在だとする詳細な論文もある
こうした否定的な味方は、優しさに関する独自の前提を反映している
気配りや同情は心から溢れ出るものではなく、脳の産物だという前提
幼い子どもは認識能力や理解力のレベルが低いため、自分本位のわがままを克服するすべがないという
ザーンワクスラーは子供の家族に悲しみや痛み苦痛を表現させたところ、一歳に満たない子でさえ、家族を慰めようとした
人間はほぼ例外なく、人生の非常に早い段階で同情を表現できる
同情の表現は自然な発達と言える
精神プロセスに注目したアメリカの言語人類学者フィリップ・リーバーマンは、この結果をいささか美化して「より高度な人間的感覚での利他現象」の最初の現れとみなした 幼い子どものたちの行動の背後に何らかの感情があるのはたしかだが、リーバーマンは認識と言語を強調するあまり、一歳前後の子どもたちの行動は、その時点での言語能力を上回っている事実を無視した
ザーンワクスラーはだからこそ、面接調査では感情移入と同情を正確に評価できないと述べている
感情を言葉で表現する能力が不十分だと、ほんとうは相手が心配で守ってやりたいと思っていても、表面的には自己中心的に見えることもある
子どもたちが調査者を前にして何を話すかではなく、どんな行動をとるかに注目するべき
それは道徳性の発達を研究する上で、革命的な視点の転換である
感情と行動が先に出て、理論付づけと正当化はあとからやってくるものだからだ
必然的に観察に頼らざるを得ない動物の研究でも同じこと 心理学者たちは家庭での実験で、人間にも動物にも同じ手法が当てはまることを図らずも発見した
家族が「苦境に」陥ったとき、子どもと同じようにペットも取り乱し、うろうろしたり、心配そうにその人の膝に頭をのせたりした
どうやら「より高度な人間的感覚での利他現象」は人間に限らないようだ
攻撃側はフォーンの母親や姉妹をにらみつけ、その場に近寄らせない
攻撃があまりに一方的かつ厳しかったので、私は腹の底から大声を出して闘いをやめさせた
年に何回かは、そうした介入も許されると考えている
攻撃者達がいなくなったあと、フォーンは恐怖ですっかり参っていた
姉がやってきて押したり引いたりして抱きしめ、ようやく姉妹は体を寄せ合った
その間母親は、これ以上の厄介ごとを防ごうというつもりなのか、攻撃の先頭に立っていたメスのグルーミングを続けていた
フォーンの姉が見せたよう慰めの行動は、アカゲザルでは珍しいこと
それでも他者の苦境に反応を示すのは、とくに幼い子どもに顕著
私も助手のレズリー・ラトレルも、社会性の発達に関する特別な研究をしていなければ、フォーンをめぐるこの情景を見逃していたに違いない この研究ではごく小さな幼児もすべて識別し、行動を逐一記録しなければならなかった
アカゲザルはもともと不寛容で攻撃手な気性なのだが、子どもにはまだそうした種特有の特徴が現れていない
理由は何であれ子どもが叫び声をあげると、他の子どもがすかさずやってきて、短くマウンティングをしたり、抱きしめたりすることが頻繁にあった 叫んだ子どもは恐怖を感じたのかもしれないし、どこかに登ろうとして落ちたのかもしれない
子どもの気持ちを落ち着かせるという意味では、同じ子どもによる慰めは、母親の抱擁に次いで効果的だった
とはいえ、母親の場合は子供を守り安心させる意図が明白だが、子供同士も同じかというとそうではない
子供が困っていると、他の子供は吸い寄せられるようにやってきて接触するのだが、他人の気持ちを考えているかどうかははっきりしない
ある子どもがリーダー格の雌の上に誤って飛び降りてしまい、その雌に咬みつかれたことがあった
子どもはひっきりなしに悲鳴をあげ、8頭の子どもが集まって咬まれた子どもの体によじ登って押したり引いたり、またお互いに突きあったりした
これでは、当の子どもの恐怖がやわらぐはずもない
ほかの子どもの反応はやみくもで、咬まれた子どもと同じくらい取り乱し、他者を慰めるというより自分が楽になろうとしているかのようだった
アカゲザルの意外な実例を2つ
生後7ヶ月のリタが腕を骨折した
リタが腕を使えなかった数週間、他のサルは彼女のハンディキャップに全く気づかない様子だった
リタの母親のローピーさえ態度を全く変えず、ほかの母子と同じように乳離れのためにリタを突き放した
アカゲザルの檻の中央には大きなタイヤが置いてあり、サルたちはそれでいろんなゲームをしていた
中でも派手なのは、思春期の雄たちがタイヤを回してスピードを上げていき、カタパルトのように天井に向かって数メートルも飛び上がる遊び
ある日、「ティーンエイジャー」たちがこの向こう見ずな遊びをしていたら、そのうち一頭がタイヤのスポークに腕をはさまれ、パニックを起こして悲鳴をあげた
タイヤのすぐ横ではおとなの雄が休んでいて、あまりの大騒ぎにうんざりしたのだろう、とうとう叫び声をあげる若者が目の前を通るたびに脅かし、殴りだした
この雄は普段は子どもにとても寛容なので、おそらく若者が腕を挟まれた緊急事態を理解していなかったのだろう
これらの例は一つの危急の事態であり、もう一つは他者の状態の一時的な変化だった
もし腕のけがが数週間以上続いたら、けがした方は他者に適応する方法を学ぶし、周囲もリタのニーズや障害を考慮に入れるやり方を身につけるだろう
遊んでいるときにおとなの雄が見せる巧みなコントロールぶりは見ていて感心する
彼らは鋭い犬歯で子供を咬んだり、取っ組み合いをするが、絶対に傷つけたりしない
年長で力の強い相手と遊ぶとき若い方は遊び半分ではやらない
霊長類は、一方で自分より強い者と遊び、また弱いものとも遊ぶ
サルたちは早い段階から、自分より幼い者と遊ぶ時、乱暴がすぎるとおもしろくなくなることを学ぶ
ハンディキャップを持つサルが、社会で特別扱いを受ける理由は、同じ「学習調整」のプロセスで説明できるかもしれない
学習調整と対照的な位置にあるのが「認知的感情移入」、つまり他者の立場に自分を投影できる能力
感受性を感情表現の域まで拡大させるわけだが、それだけにとどまらない
学習調整は認知的感情移入より時間のかかるプロセス
認知的感情移入は人間と類人猿によく見られるが、それ以外の動物ではないかもしれない サルもハンディキャップを持つ仲間を特別扱いするが、それが学習調整以外の何かだと言う証拠はいまのところ見つかっていない
地獄谷のモズの場合などがまさにそうで、ほかのサルたちが彼女に寛容なのは、モズの動きが鈍く、脅威にならないことを学習したからだろう
恒久的な障害を持つ仲間に対して調整を行ったサルの例をさらに3つ挙げておく
1988年、ウィスコンシン霊長類研究センターに生まれたアカゲザル 顔の表情がうつろで、運動能力にも明らかな欠陥がある
人間のダウン症児とのもうひとつの共通点として、アザレアの母親は20歳近い高齢で、閉経直前だった 走る、飛び上がる、登るといった動作をアザレアがやるようになったのは、他の子どもよりもかなり遅く、それも不完全にしかできなかった
食餌も深刻で、サル用ビスケットを手に持ってかじることができず、生後5ヶ月まで床に落ちたかけらをイヌのようになめとっていた
野生状態ではとても生き延びることはできなかっただろう
社会的にもアザレアははずれ者だった
母親から離れたのは37日目(平均は13日)
アザレアの母親は拒絶の姿勢こそ一度も見せなかったものの、特に関心を持っているわけでもなかった
何かと気を使っていたのは若い姉
母系順位のトップに所属していたこともあって、アザレアの身の安全はかなり確保されていたが、それでも彼女が一方的にやられる激しい喧嘩も数度起こった
母親が別のサルを脅かすとき、アザレアはわけもわからずそれに加わり、相手の体格がどれほど大きかろうと激しい唸り声をあげる
サルの世界では連合形成はよくあることで、それぞれのサルは敵味方を含めた他のサルの位置と動向を把握しておかねばならない アザレアにはできるはずもなく、恐ろしい相手と一対一で睨み合い、相手も容赦せずアザレアはひどい目にあった
おとなのオスがコンクリート斜面にアザレアの頭を打ち付け、アザレアは数秒間激しく動揺し、体の片側が言うことを効かなくなった
アザレアはこの事件から教訓を学んだようで、以後は不安そうな目でこの雄を追いかけ、彼が姿を表すと、たとえ距離が離れていても避けるようになった
アザレアは終始受身の姿勢を崩さなかった
他のサルと遊ぶことはめったになく、しかも相手は自分より幼い者ばかりだった
同年代は足が早く、動きが乱暴すぎてついていけない
しかし、血縁関係のあるなしに関係なく、アザレアが他の仲間からグルーミングを受ける回数は、彼女の同世代のサルがグルーミングを受ける回数の二倍もあった
アザレアは発達が遅れていたにもかかわらず、群れに完全に受け入れられたことがわかる
1972年、テキサス州に広がる44ヘクタールの飼育地でのこと
ワニアは脳性麻痺の症状を呈しており、足よりは腕のほうがよく動くので、両足を腕の外側に突き出して、まるでウサギのように飛び跳ねていた ワニアには視覚障害もあったようで、識別のためなのか、しょっちゅう鼻を鳴らしてほかのサルの臭いをかぐし、ブッシュやサボテンにも何度となくぶつかる
また攻撃性が強く、極度に活動的だった
脳性麻痺のこうした特徴は、人間の子どもとも共通している
ワニアの場合は、特に母親にグルーミングをするサルに最大の敵意を見せ、どんなことをしてでも二頭の間に割って入ろうとした
結局親離れはまったくできず、母親から引き離されたときには鳴き声がやまなかった
群れの仲間たちは、ワニアの行動にすっかり途方に暮れていた
脅威を感じると普通は逃げ出すものだが、ワニアは金切り声をあげて、騒々しく動き回るばかりなのだ
適切な行動ができないためか、他のサルたちはワニアに通常の行動ルールを教える意欲を失った
他の子どもなら絶対見過ごさないような不作法もワニアには許されるようになった
第一位雄が雌にもたれ、のんびりとグルーミングをしてもらっているとき、ワニアが彼の足にからみついた
何度か眉を上げた(いらだちの表現)あと、おもむろに座り直して、邪魔な子供を脅かそうと本格的に怖い顔を作ったが、その子どもがワニアだと気づくやいなや、第一位雄は横になった
カリブ海の島にアカゲザルの群れが放し飼いされている
1982年、その群れに盲目の雄の赤ん坊1585Bが生まれた
視力以外は正常で、同い年の子供と遊ぶこともできた
ただ、1585Bは同年代の子供と比べて母親と逸れることが多いため、危険を察知できない状況に置かれることがあった
その対策として、1585Bの母親は他の母親よりも子供を頻繁に連れ戻したり、行動を制限していた
盲目の子どものサルを調べた別の研究では、盲目の子供は決してひとりきりにされず、群れがどこに行っても特定メンバーがそばに付き添っていた
1585Bの血縁集団も同じように注意を怠らないで彼を守っていたようだ
盲目の子どもが木の低い枝に座り、そこから2~5メートルのところに近しい親族がいることが何度かあった。血縁関係にない者が近づこうものなら、母親やおばたち、それに5歳になるいとこから矢継ぎ早に脅しを受けた。
学習調整には、理論上2つの方向がある
搾取
健康なサルが、障害を持つサルにつけこむことを覚えれば、それは搾取ということになる
ウィスコンシン霊長類研究センターで飼われているベニガオザルのグループは、ほとんど目の見えない年老いた雌のウルフをしょっちゅういじめ、彼女に飛びかかったり、背中に乗ったりしていた ウルフの目が見えていた頃は決してやらなかったこと
長年ともに暮らしてきた者同士になると、特別な配慮と気遣いを受け、寛大な扱いを受けることもある
ウルフにもこちらのパターンが見られた
視力が低下してからというもの、群れの雄たちはウルフの保護に熱心になった
ハンディキャップを持つ個体への特別な配慮は、学習調整と強い愛着が混ざったものと解釈するのが適当だろう
愛着が舵取り役となって、相手を思いやる方向への調整を促す
しかし学習の時間がまったく、あるいはほとんどないときにも、特別扱いが起こることもある
群れの一頭が傷ついたいり、能力を失ったりすると、サルたちは急に気遣いを見せるようになる
飼育ヒヒのコロニーで子どもがてんかんの発作を起こした時、ほかのヒヒは即座に子どもを守ろうとした 兄はその子の胸に手を当てて、様子を見るために囲いに入ろうとする人間を威嚇する
この出来事を報告したランドール・キーズによると、それまで兄は、ここまで弟を守るような行動をしたことがなかったという 学習プロセスは時間がかかるものなので、仲間の苦境に即座に対応する行動はなかなか説明しづらい
霊長類には、仲間が危険に対処できなくなったら、ただちに他の者が守りを固めるという絶対的なルールがあり、反射的に実行するのだろうか
あるいはどこかの段階で、動きの悪い個体は緊急事態で面倒に巻き込まれやすいことを学習したのかもしれない
その知識を一般化して、新たに障害を負った仲間にも適用したとも考えられる
そう考えれば、目の見えないウルフや発作を起こしたヒヒが、それまでにない保護を受けたことも説明がつくだろう
さらにもうひとつ、仲間が危険に対処しきれないのを見て、自分自身が迫りくる危険に襲われた時のことが蘇ったとも考えられる
この可能性は非常に興味深い
自分の体験をもとにして他者の苦境を理解するには、他者の立場に自分を置いてみるという作業が必要になるため
死をみとる行動
愛着の基本に関心と同情があるとすれば、死んでしまった、あるいは死にゆく仲間への態度を調べる価値があろう
ゾウは群れの仲間が死ぬと、その象牙や骨を拾って鼻の穴に入れ、群の間でまわしていくという
厚皮動物(ゾウ、カバなど)は親族が死んだあと、何年もたってからその場所に戻ってきて、遺骨を探したり、触れたりする 彼らは死者を懐かしみ、生前を偲んでいるのだろうか?
ほかのゾウは老ゾウの体の下に鼻や牙をすべりこませ、何とかして立たせようとする
懸命になるあまり、牙を折ってしまうゾウもいた
アンボセリ国立公園で、密猟者の発射した弾丸が、若い雌ゾウ「ティナ」の肺を貫通した
仲間のゾウたちはティナに寄り添ってまっすぐ立たせようとする
けれどもティナはすべるようにして倒れ、身震いをひとつして息を引き取った
テレジアとトリスタは取り乱し、ティナの背中と足の下に牙を差し込んで立ち上がらせようとした
このあと家族は、ティナの遺骸に土をかけ、周囲のブッシュから枝を折り取り、ティナの体にまいていく
日が暮れるころには、遺骸はすっかり枝で埋まっていた
愛するものが死んだり、いなくなったりしたとき、サルが見せる反応は人間の悲嘆と似ている
「抵抗の段階」
子ザルはまず母親を呼び、必死に探し求める
「絶望の段階」
反応がなくなり、食欲が失せて視線もうつろになる
もっともこうした状態が高じて、サルが悲しみのあまり死にいたるかどうかははっきりしない
フリントは、母親のフロを亡くして3週間後に死んだ
このときフリントは8歳半だったが、年齢の割に母親に依存していた
死後解剖の結果、フリントの胃と腹部に炎症が見られた
しかしどちらかというと、フロとフリントは同じ病気にかかり、フリントのほうがたまたま母親よりあとに死んだという見方の方が有力だ
もしこの順序が逆だったら、霊長類の母親は子どもの死体を何日も、文字通り体がばらばらになるまで持ち歩いて執着を示す
そうやってようやく死体をあきらめるころには、雌ザルの外見は乳房が張っていることをのぞけば、子どもを亡くしたようには見えない
私自身も、子供の死体がすぐに片付けられてしまうと、アカゲザルの雌が一日中うろうろ歩き回り、声をあげつづけていたのを目撃している
子どもはおそらく雄のヒヒにやられたのだろう
それから数日間ザンドラを観察していたが、悲嘆にくれる様子は全く見られなかった
この間ザンドラのいた群れは、子どもが殺され、彼女が死体をなくした場所の近くを通っていない
ところが子どもが死んでから一週間ほどして、群れが現場に近づくにつれてザンドラは激しく動揺しはじめた
子どもを探そうとするかのようにあたりを走り回り、木に登った
一番上に着くと、周囲を見回して呼びかけをはじめる
チンパンジーの雌も子どもを亡くすと、哀れな鳴き声をあげ、出し抜けに叫び声を上げることもある
アーネム動物園のチンパンジーコロニーに、ゴリラという紛らわしい名前の雌チンパンジーがいた
彼女は子どもを失ったとき、哀れっぽい声をあげたり叫んだりするだけでなく、感情が高ぶるたびに、人間の子どもが涙をふくときのように握りこぶしで目をこすった
獣医師に検査したが目に異常はなかった
親しい個体が死んだ時、チンパンジーは漠然とではあるが、死の意味を知っているかのような感情的な反応を見せることがある 少なくともその個体に恐ろしいことが起こったという認識はあるのかもしれない
ゴリラにまつわるエピソードがもう一つ
若いメスのオルチェが転落死した
オルチェは二ヶ月前に健康な雄の赤ん坊を出産したばかりだが、子どもに無関心で、子育てもしなかった
死ぬしばらく前からオルチェは咳をするようになり、健康状態は悪化の一途をたどっていた
丸太に座っているオルチェをゴリラがじっと見つめているという
ゴリラは興奮し、ヒステリックな声で叫びだした
攻撃的というわけではなく、威嚇の身振りを伴っているわけでもなく、むしろオルチェの目やふるまいに何かをみとって、気分を害しているという印象だった
それまでおとなしかったオルチェも弱々しく鳴き返したが、その後横になろうとして丸太から床に落ちてそのまま動かなくなった
飼育係が他のチンパンジーを別の場所に移し、オルチェに心臓マッサージと人工呼吸を行ったが効果はなかった
別のホールにいた雌がさっきゴリラが出していたような叫びを上げたかと思うと、建物にいるチンパンジー全員が黙りこくった
オルチェの死因は心不全だったと思われる
死後解剖で、心臓と腹部が重い感染症にかかっていることが判明した
同じアーネム動物園で、おとなの雄チンパンジーが喧嘩で重症を負った
手術後、夜間用檻の一つに移されたが、そこで死んだ
その夜建物に戻ってきたチンパンジー集団は声一つ立てなかった
翌朝飼育係が食物をもってきても沈黙が支配しており、いつものように大喜びで騒ぎ出すということはなかった
雄のチンパンジーの死体が建物から運び出されてから、声を出し始めた
野生チンパンジーの小さなグループで、おとな雄6頭が猛り狂っていた
雄のリックスが石にまじって転がっていた
6頭の雄たちの行動は、リックスが木から落下して首を折って死んだ直後の反応
他のチンパンジーは死体をじっと見ていたが、やがて雄たちの攻撃的なしぐさで緊張が高まり、四方八方に散らばった
チンパンジーたちは神経をとがらせ、上口唇をめくりあげて、おたがいに抱擁したり、体に触れて軽く叩きあったり、マウンティングをしていた
しばらくして何頭かが死体を眺め始めた
一頭の雄は前のめりになって死体を見つめ、哀れっぽい声をあげた
他の者達は、リックスの死体に触れたり、臭いをかいだりしている
若いメスは身じろぎもせず座り込み、実に一時間以上もリックスから視線を動かさなかった
3時間も続いたころ、年長のオスがとうとうそこを離れ、川に沿って谷底の方に歩き始めた
チンパンジーは仲間が死に直面すると、まるでその苦しみがわかるような行動をとる
普段は無責任で無頓着なチンパンジーの子どもが、仲間がけがをしたり、病気になったときに見せる思慮深さは印象的
ひとつの檻に子どもの雄一頭と雌二頭が入っていて、雌のうち一頭は病気で死にかけていた
病状は深刻で、雌は昼間も檻の床にだるそうに横たわっていた
彼らは元気よく遊んでいるときでも、病気の雌の邪魔をしないように気を配り、檻のなかを走り回り、ジャンプしたよじ登ったりしていても、決して雌の体には触れないのだった
ときどき、代わる代わる病気の雌に近づいて、優しく体をなでたりする
こうした行動をヤーキースは「この小さな生き物は、ある種の配慮、同情、哀れみ、それに人間的とも言える思いやりの表現を見せた」と解釈している
この解釈は、先に述べた学習調整の仮説をはるかに超えたもの
ヤーキースは感情移入を想定していた
人間の家族に飼われていたチンパンジー「ルーシー」の逸話からも、同じ前提が見て取れる
アメリカの心理療法医のモーリス・テマリンは、ルーシーが赤ん坊だった頃から、体重40キロの人間くさいチンパンジーに成長するまでを追跡し、彼女の動きや性格の特徴、セックスゲームを分析して『人間として成長したルーシー』という本にもまとめた ルーシーはテマリンの妻ジェーンに、ことのほか優しい態度を見せたという
救助行動や他者の要求に対する敏感さは、サルよりも類人猿の方が発達していることは大いに考えられる
私の経験から言うとサルはさほど親しくない個体が死んだときでも目立った反応を見せないし、チンパンジーのように気分の悪そうな仲間を気遣うという話はあまり聞いたことがない
サルと類人猿には大きな違いがあるのかもしれないが、そのあたりのことはまだ充分にわかっていない
しかし、サルは、病気の個体や傷ついた個体に対し優しく世話したり、守ってやったり、注意を向けたりすることがある
たいていの場合、類人猿との類似の方が、相違より目立っている
チンパンジーは知能が高いという説は広く知られているが、そのため傷口をきれいにするといった哺乳動物には当たり前に見られる習慣も、チンパンジーとそれ以外の動物とでは異なった解釈がなされることがある 自分では届かない場所に傷があるときに、この行動は重要になってくる
唾液にはウイルスやバクテリアの増殖を抑える働きがあるので、15センチの傷口でさえたちまち、しかも跡形もなく治ってしまう 傷の舐めあいは生きていく上で欠かせない
そのため、別の群れに加入しようとして負傷した雄は、傷口を舐めてくれる仲間がその群れにいないので、前の群れに戻らさざるをえない
とはいえディッタスは、サルが相手の痛みを理解しているとまでは考えていない
しかし、コートジボワールのタイ国立公園でチンパンジーの同様の行動を観察したクリストフ・ボッシュは、傷の舐めあいはチンパンジーが「負傷者の欲求を理解し」、「傷による痛みに感情移入」したことの現れだと考えた チンパンジーたちは負傷者の傷口の血を舐めとり、慎重に泥を落とし、寄ってくるハエを追い払ってやる
もし負傷者が群れの動きについていけなかったら、移動のスピードも落とす
本当にこれが、チンパンジーは感情移入ができるという証拠だろうか?
同じように傷を舐めてやるサルや他の哺乳動物も感情移入しているのか?
残念ながら傷の舐めあいからは、その背後にある精神的なプロセスなどはまったくわからない
疑い深い人になると、血がおいしいから舐めるのだと主張するだろう
確かに霊長類が喧嘩や出産で血が飛び散った植物や木の枝を舐めるのは珍しいことではない
しかし私は、舐めあいには傷口をきれいにする意味以上のものがあると考える
そうした行動を実際に何度も見ていると、ヤーキースやテマリン、ボッシュの見方が正しいのではないかと直感で納得できるものがある
ゾウやイルカの例で示したように、こうした高度な配慮は何も人間に近い種にかぎったことではない 同じことが霊長類の中でも言える
霊長類のうち原猿類は祖先の特徴をよく残しており、真猿類はそこから枝分かれしたわけだが、私も含めた多くの動物行動学者は、原猿類の他者への配慮があまり発達していないと思い込んできた 原猿類を「ハーフモンキー」という意味で呼ぶ地域もあることから、一般に原猿類はサルに比べて原始的で洗練されていないと思われている 生後3ヶ月のワオキツネザルの雌の子どもが電流を通した柵に登ってしまい、感電して体を痙攣させながら地面に落ちたことがある
戻ってくると、子どもは祖母に背負われていた
いつもなら絶対にそんなことをしない
転落のときその場にいなかった母親は全く無関心で、離れたところの木で餌を食べている
祖母は10分ほど背負っていたが、そのうち静かなところで子どもを下ろした
子どもはその場でぼんやりしていた
子どもはもう一度祖母の背中に載せてもらったが、母親は相変わらず関心がない
やがてて他の子どもたちが寄ってきて、数分間その子にグルーミングを熱心に続けた
ワオキツネザルの子どもは、相手が誰であれめったにグルーミングしないので、これも実に珍しい光景
ワオキツネザルの群れが移動し始めたとき、子どもは一時蟹場もそばにいなかった母親の背によじ登ることができた
すると、普段から子どもに冷ややかだった母親は、急に立ち上がって子どもを払い落とした
それを見ていた祖母が、すぐに母親を攻撃する
仕方なく母親は子どもを背中に載せて歩き始めた
この逸話からもわかるように、キツネザルも仲間に問題が起こったらすぐにそれを察知し、反応する
同年代の子供達は、仲間に良からぬことが降り掛かったらしいと気づいたし、祖母も駆けつけて普段では考えられない配慮を見せた
傷ついた家族を顧みない母親を懲らしめることまでしたのである
母親と祖母の対応の違いは、災難をその目で見たかどうかに関係しているのだろうか
年長の雌のキツネザルは、娘と孫が争ってもまず手を出したりしない
だからこそ、この逸話の祖母の行動は意外だった
何より私が興味を持ったのは、祖母が娘にどうふるまうべきかを教えているように思える点だった
同じことが人間で起こったら、それはまぎれもなく社会的圧力と呼べるだろう
サルや原猿類は、仲間が苦境に陥ったときに思いやりを見せる
科学はその環状や認知の深さをきちんと評価しきれていないのかもしれない
だとすれば類人猿に関しては、もっと未知の部分が多いことになる
私はボノボやチンパンジーといった類人猿と、それ以外のサルを同じくらい熱心に研究してきた
サルには決して見られないが、類人猿が和解のときに繰り返しする仕草がある
喧嘩をして咬みついたあと、攻撃側が相手の傷の具合を確かめる
それも行き当たりばったりに傷を見つけ出すのではなく、どこを見ればいいかちゃんとわかっている
咬みついたのが左足だとすれば、迷わず左足んい手を伸ばし、持ち上げてじっと観察する
そして傷を舐め始める
ひょっとすると類人猿は因果関係を理解しているのだろうか
他者の立場に立って、自分のやったことが他人に与えた影響を認識しないと、そうした行動はとれないのではないか
チンパンジーはまた、いわゆる「慰め」と呼ばれる行動にも長けている
サルもごくたまに、攻撃を受けた者を力づけるようなことをするが、あくまで例外
イタリアの動物行動学者フィリッポ・アウレリと同僚たちは、三種類のマカクを調べてみたが、攻撃を受けたばかりの者をかならず誰かが気遣うことは証明できなかった さらなる攻撃が来ることを恐れて、遠巻きにしていた
ヤーキース霊長類研究センターでマイケル・セレスが観察したチンパンジーコロニーは、全く対照的 喧嘩が終わって砂埃が収まった時、争っていたチンパンジーに傍で見ていた傍観者達が近づいた
彼らは当事者を抱きしめ、ひとしきり体に触れたり、背中を叩いたり、グルーミングをした
傍観者たちの行為は紛れもなく、先程の喧嘩で一番気が立っていると思われる者を対象としていた
他者の苦境を目の当たりにしたときのチンパンジーの反応は、他のどんな霊長類よりも、接触と安堵を求めるときに人間が見せる表現に近い
すぐにでも誰かに来てもらい、体に触れて安心したいので、口を尖らせ、哀れっぽい声や短い叫び声をあげて、ねだるように手を伸ばしたり、いらだたしげに両手を振る
こうした動作で効果ががないとチンパンジーは最終兵器「癇癪」を持ち出す
癇癪をよく起こすのは3~4歳の子どもで、それはちょうど母親の授乳意欲が衰える時期にあたる
だが大人のチンパンジーでも、たとえば食物を分けてもらえなかったときや、ライバルとの対決で負けたときにはかんしゃくを爆発させることがある
アーネム動物園の集団にはイエルーンという年長のリーダーがいた
彼が若くて強い雄にその地位を追われたときの、凄まじい癇癪は今でも覚えている
対立者への反撃に力を貸してくれるかもしれない大人の雌がいると、動作はことに激しくなった
そんなイエルーンのところに、雌や若者がしばしばやってきて体を抱いたり、なだめたりした
他者の苦境にチンパンジーがいかに敏感に反応するかを示す最後の証拠として、アカゲザルのローピーと比較してみよう ローピーは娘の腕が折れていても、全く頓着しなかった
これに対して、チンパンジーの母親の例がある
アーネムのコロニーで大人の雄同士が緊張状態にあったとき、ある雄が子どものヴァウターを捕まえ、頭上に激しく振り上げて壁にぶつけ始めた
これは必ずしもヴァウターが狙いだったわけではない
チンパンジーの雄は、音を立てるものは何でも攻撃的な仕草の道具にする
子どももそのことを学んで雄には近づかないようにする
おとなの雌がヴァウターの救出に乗り出して、虐待をやめさせることに成功したが、ヴァウターは何週間もびっこをひいていた
もっとも、ヴァウターの母親は事の次第を分かっている様子だった
ただ母親が乳飲み子を抱えていたために、ヴァウターは二の次の扱いを受けた
より幼い子を優先させる規則は、母親が力づくで教え込まないとなかなか理解できない
しかしヴァウターの体が治るまでの間、母親は規則の運用を緩めた
不満をこぼす幼い弟を脇に押しやって、ヴァウターの入る余地を作り、傷ついた兄を優しく抱いてやった
人間は特別か
動物行動の研究者たちは、動物とは何かを欲しがったり、意図したり、感じたり考えたり、期待をする存在だという発想を、素人考えの誤りと決めつけてきた
奇妙なことに、これまで行動を知る鍵は個体の中ではなく外に求められていた
心理学者は見返りがあると刺激への反応が高まることを調べた
生物学者は生殖が促進される場合に行動が広まる様子を研究した
単位となる時間の尺度は全く異なるが、最終的には環境が行動の適切さを決めるという考えは共通している
生物学でも心理学でも、核となる部分では行動主体そのものから関心をそらしてきた
環境が行動を支配するのなら、なぜ個体が必要なのか?
つまり、彼らが頭の中で何を思っているか、気にしなくてもいいということだ
動物の救助行動について考えようとすると、データ不足や実験の方法面での障害が数多く立ちはだかる
これ以上狭量な発想で認知全体を否定されては、重荷が増えてかなわない
一部の生物学者は、これまで述べてきたような動物の思いやりの例は、ほとんどが血縁者同士のものだと指摘する
どうしてもっと単純に、遺伝子レベルの親族たちがおたがいに投資していると考えないのだろう?
血縁がうんぬんという指摘は進化の説明には有効でも、目前の疑問には何のヒントにもならない
私達が今取り上げているのは、動機であり意図なのだ
実際にどういう行動で現れるかは関係なく、他人を思いやる者は他者の状況を敏感に察知し、助けたいという衝動に駆られ、その状況で最適の行動は何かを決定しているに違いない
動物たちが以下のような行動をとる以上、私達はその理由を知りたいと思う
ゾウのタルラは死にかけた仲間の口に草を詰めた
チンパンジーはついさっきたたきあった相手と抱き合う
サルの上位の雄は、脳障害を持つ子どもに邪魔をされてもこらしめたりしない
時代の変化につれて、動物の精神生活への関心が再び脚光を集めようとしている
明らかになった証拠に従って、この分野への漸進的な方向転換を提唱する研究者もいるが、もっと短気な学者もいる
最終的な答えが出るまで新しい視野を人質にするのは不公平だと信じて、動物を自動装置とみなすデカルト的視点に風穴を開けようと主張している もちろん、ただ動物と「一体化」すればいいと言っているのではない
客観的な距離を置き、仮説を検証し、言葉を慎重に選ぶ必要がある
動物の行動をめぐる議論は、しばしば言葉の議論に終わってしまう
動物行動学者はどうしても一般的な言葉から概念を借用せざるをえないのだが、そもそも言葉は人間のコミュニケーションのために作られたもの
動物に適用するときの意味を具体的に示す努力を怠りがち
擬人化が顕著な言葉として、霊長類の行動を表現するのに使う「和解」と「慰め」がある どちらも限定的な接近を指しており、またいくつもの全長があるので、そうした条件を満たさないものにはこの言葉は使わない かつて対立していた者同士が、攻撃的な衝突があってまもなく再会すること
この定義に沿った和解が実際に起こらない、あるいは新たな敵意の軽減にまったく役立っていないことが明らかになれば、呼び方を考え直さなくてはならないだろう
もっと古くから使われ広く受け入れられている用語にも同じことが言える
擬人化した言葉は、それ自体で完結させるのではなく、真実を突き止める手段として使う
それが科学での使い方と、世間一般での用法との違い
科学者が目指す最終的なゴールは、人間の感情を動物に投影させて満足することでは断じてない
分析可能なアイデアと、再現性のある観察に到達すること
そのため擬人的用語は、数学から医学にいたるすべての科学における直感と同じように、とっかかりの役目を果たしている
私が求めているのは、客観的な擬人化であり、多くの情報源(過去の実験や逸話、出版物、考えや感情、神経化学、自分が動物になったらという想像、自然史的観察……などなど)から得たデータを活用できるような推論である。もとはいかに折衷的なものであっても、結果として引き出される推論は検証が可能なもの、もしそれが無理なら、公表されたデータで証明できる予測に結びつくものでなければならない。
が、しかし、こうしたリベラルな考え方を阻むのが倹約の原則 サルや類人猿に限って言えば、倹約の原則が二通り存在し、それが互いに根深いところで衝突しているところに問題がある
一つは伝統的な考え方
その現象が低級な能力を示す言葉で説明できるのであれば、高度な能力の表現を引き合いにだすべきではないというもの
もう一つは人間と他の霊長類に共通する進化的背景を考慮する
関係の近い種が同じ行動をする場合、その背景にあるプロセスも同じだろうと考える
もしそうでないとすれば、枝分かれした後の進化で似たような行動が生じたことになる
独立した進化をはじめてわずか数百万年しかたっていない生物にとっては、きわめて経済効率の悪いプロセスだ
つまり、倹約の原則には2つの顔がある
第一に、一つの行動に関して、高級な認知的説明よりも低級な説明を選ぶことが求められる
こうした「進化の倹約の原則」は、人間と類人猿にはあるが、サルにはない特徴について、本来はひとつで済みそうなところに二通りの解釈が提示されたときに問題になる
人間の行動を説明するときは、一般に複雑な認知能力が引き合いに出されるが、そうだとすれば私達は、同じ能力が類人猿にもあるかどうかを慎重に検討しなければならない
少なくとも可能性は残しておいた方がいい
倹約の原則をめぐる議論の背景には、自然の中の人間の位置というもっと大きな問題がそびえている
今日に至るまで、人間も動物王国の一員だと見なす考えと、一線を画するという考えは衝突を続けてきた
明らかに進化論的な視野を持つ研究者でさえ、人間と動物を区別する「大きな」特徴を探さずにはいられない
人間を際立った特別な存在とする主張は、人類の最も簡明な定義に関するプラトンとディオゲネスの論争に遡る 二本足で歩き、かつ裸である生き物は人間だけだというのがプラトンの言い分
ディオゲネスは羽根をむしったニワトリを講義室に放って「これがプラトン言うところの人間だ」と言い、それから人間の定義に「幅広の爪を持つ」という項目が加わった
1784年、ゲーテは、人間性の礎石を発見したと高らかに発表した 類人猿を含む哺乳動物はみんなこの骨を持っているが、人間だけはないと考えられていた しかしゲーテの発見によって、人間と他の動物との連続したつながりが明らかになった
ダーウィンが進化論を展開するよりずっと前のこと
しかし人間は特別だという主張は科学の進歩に役立っているし、元々の動機だって科学的ではないか?
しかし解剖学的、生理学的、心理学的に見た時、その大部分は古代から連綿と受け継いだもの
人間だけの特徴は、進んでいて優れているとみなされることが多い
だが私が思うに、そういう限られた部分を拡大鏡で覗き込むより、人間を動物として全体をじっくり眺めるほうがよほど面白いのではないだろうか
大きな視野でとらえると、人間の特徴も自然との明らかな連続性が浮かび上がってくる
そこには人間ならではの高貴な特質も、また大量虐殺や破壊傾向といった自慢にならない特徴も含まれる
人間に近い動物たちはどちらの特徴も備えている
人間と他の知的生命体を比較するのに、何も宇宙に探査機を飛ばす必要はない
地球の知的存在を探索するには、動物の認知研究にちょっとした余裕をもたせる事が必要になる
従来の研究は制限だらけで、まるでそこには何もない、たとえあったとしても我々には見つけようがないと言わんばかり
動物の頭の中で何が起こっているのか、わかるはずがないという批判的な意見もある
認知を研究する動物行動学者だって、無論そんな事ができるとは思っていない
彼らが目指しているのは、原子物理学者が構造モデルに基づいた実験予測で原子の「内部を見ようと」するのと同じで、動物の精神的なプロセスを再構築すること
擬人的な用語と逸話中心の証拠、倹約の原則に関する留保のせいで、活発な議論にはなったが、同時に混乱と曖昧さが生じたことは否めない
しかしそれは、動物行動研究に求められている変革の、産みの苦しみに過ぎない
鏡に写した自分
パプア・ニューギニアに住むビアミ族は、表面がなめらかなスレートや金属を持っておらず、また水面に顔を写せるような川も近くになかったため、自分で自分の姿を見たことがないとされていた 見た直後は驚いて、口に手を当てたり、かしげたりするが、あとはその場に立ち尽くして鏡を眺めるだけ
腹の筋肉だけが、彼らの大変な緊張を物語っていた
まるでナルキッソスのように茫然として、鏡に映った自分にうっとりと釘付けになっている それでも何日かすると、彼らは鏡の前でも気にせず身繕いをするようになった
ビアミ族がそれ以上にとまどったのが、ポラロイド写真
最初は写真を見ても全く理解できず、カーペンターが写真の鼻と本物の鼻を交互に指差し、それを体のいろんな部分で繰り替え得して意味を教えてやらなくてはならなかった
やがて理解とともに、恐怖が襲ってきた写真に撮られた者はぶるぶると体を震わせてカメラから顔を背け、写真を胸に押し当てたまま、自分だけの場所に逃げ込んだ
そこで彼は身じろぎもせず、20分間じっと写真を眺め続けた
しかしこの段階もすぐに過ぎ去った
人類学者が村に足を踏み入れるまで、ビアミ族に自意識がなかったかというと、もちろんそうではない
感情移入が成立するには、自分と他人の区別ができていて、また他人にも自分と同じ自我があるという認識が条件になる
動物が鏡を見た時にどんな反応をするか
視覚的な方向感覚のある哺乳動物が鏡を見ると、たいていはまず鏡に近づいたり、裏側に回ろうとする
1922年にオランダの博物学者アントン・ポルテルジェーは、サルは鏡像と自分との関係を理解できないが、オランウータンは「最初は注意深く鏡を覗き込んでいるが、やがて自分の背中や、パンくずを映してみるようになった……明らかに鏡の使い方を理解している」と書いている ドイツの形態心理学者ヴォルフガング・ケーラーも、1925年にチンパンジーが自分の鏡像に飽くことのない興味を示したと記している チンパンジーは鏡の前でいつまでも遊び、おかしな顔を作ったり、物を映してみて見比べたりしていたという
サルが見せた表情は取るに足らず、鏡に映っているのは種も性も同じだが自分ではない他人だと思っていた
1970年代に入り、アメリカの比較心理学者ゴードン・ギャラップが行った巧みな実験からより確かな証拠が得られた 顔の鏡を使わないと見れない場所に、気付かれないように斑点をつける
チンパンジーとオランウータン、それに生後18ヶ月を過ぎた人間の子どもは、鏡を見て斑点に気づき、指でこすってからその指をじっと調べた
それ以外の霊長類は、鏡像と自分のつながりを理解することができなかった
ギャラップは自己認識を自意識と、さらに数々の高度な精神能力と同等であると考えた 自分の意図を他人のせいにする
意図的にだます
和解する
感情移入するなど
これからすると人間と類人念は、他のあらゆる生命体とは一線を画する認知領域に到達していることになる
一線を画すると言っても、はっきりした線引には但し書きをつけなくてはならない
それは人間だけを独立して分類するときも、少しだけ範囲を広げて類人猿も含めたエリート階級を形成するときも同じ
鏡のテストは自意識を調べるごく狭い手段にすぎない
他にも自意識が現れる行動はたくさんあるし、もちろん視覚以外の感覚も関わってくる
コウモリはそれぞれが発した音波の反射を聞き分けている 木に登ったサルは、自分の手足、しっぽがどこまで届くかを完全に把握している 一部の認知心理学者は自我というのは生物と周囲の環境を結ぶインターフェースであると見なしている J・J・ギブソンによると、生物と環境との相互作用が複雑になればなるほど、自らについて知る必要が出てくるという この前提は物理的な環境はもちろんだが、おそらく社会的環境の方にもっと当てはまるだろう
マカクやヒヒは、群れの仲間全員の社会的な地位や血縁関係、喧嘩のとき誰が誰の味方をするか、また特定の行動に対して他人がどんな反応を見せるか知っていないと、何一つ行動することができない 周囲を理解することは、自分自身を理解することにほかならない
だから相対的に自己認識のレベルが高い週もいるだろうが、そうした知識がまったくない種など存在しない
同様に感情移入も、全か無かという現象ではないだろう
他人の苦しみを見てただ動揺する、あるいは窮状を完全に理解してやるといった極端なものの中間に、いろんな形の感情移入が存在している
アカゲザルの子どもたちは、誰かの叫びを聞くやいなや、狼狽してお互いに触れ合おうとする そうかと思えばチンパンジーは、自分が負わせた傷のことを思い出し、相手のところに戻って傷の様子を確かめる 人間の世界でも、他人の立場でものを考え、他人の視点で世の中を見ることが求められる
「してもらいたいと思うことをしてあげなさい」という黄金率がそれだ
このような役の引き受けは非常に特殊な能力ではあるが、最初はとても単純な形で始まった
サルは他の仲間を完全に識別できる
染色体異常のアザレアが叩かれていると、本人が助けを求めたわけでもないのに、姉が止めに入る
機嫌の悪いサルに自分の子どもが近づこうとすると、トラブルを未然に防ぐために母親が急いで引き戻す
彼女たちがこうした行動を取るのは、自分いがの者が危害を受ける危険性を敏感に察知しているからではないか
我が身に害が及ぶのを避けるのなら話はわかりやすい
しかしどうして、他人のことが気にかかるのか
もしかすると他者は自分の延長であり、彼らの苦境が自分に跳ね返ってくるのかもしれない
このメカニズムは「感情伝染」と呼ばれ、最初は誰彼構わず機能するが、年令を重ねるにつれて相手が限定さrてくる サルは、相手が窮地に陥っているというかすかな兆候しかもそれが切迫している状況までも察知することを学ぶ
友人や親戚が巻き込まれたときはとくに、何が起こっているかをじっくり観察する
役の引き受けが充分に発達すると、さらに高度になる
他人は自己の延長ではなく、独立した存在として認識される
認知的感情移入とは、自分と他者の境界線を見失うこと無く、相手の「靴」を履くこと 誰かの身になって外からの影響を受け止めることで、子どもは自分の内面に興味を持ち、他人の感情を探ろうとする
こうした作業を重ねるうちに他者を意識した相対的な自意識が成長するという
進化の過程でも同じ作業が行われたかもしれない
一部の種は、仲間がどんなふうに行動しているかを正しく認識することが、ことさら有利に働く社会組織を発達させてきた
他者の存在を強く意識すれば、必然的に自意識も高まってくる
ギャラップが示唆しているように、鏡のテストがその能力の何らかの判断基準だとすれば、高度な感情移入ができるのは人間と類人猿だけということになる
認知的感情移入の最初の兆候が現れる時期が、鏡で自己認識できる時期とほぼ同じだということも、両者の関係をうかがわせる一つの証拠
また自己認識できる種であるチンパンジーには「慰め」という行動が見られるが、マカクにはない
マカクは誰かが苦境にあるという気配を察知して反応するが、いざ喧嘩が終わってそうした手がかりがなくなれば、たちまち興味を失う
ゆっくりと変化するプロセスでは、連続性と非連続性がぶつかるときの緊張状態は簡単に解決できない
温度は少しずつ変わるが、水や蒸気や氷になるときの変化は突然
感情移入と同情の発達を考えるとき、漸進主義者にも、人間の卓越を信じる人にも、それぞれもっともな言い分がある
類人猿も人間と同じように、鏡による自己認識ができると主張すれば、だからといって自己認識ができるのは人間と類人猿に限らないと反論が返ってくる
類人猿は著しい感情移入を見せると言えば、いや、他者の欲求に敏感なのは類人猿だけではないという主張もある
そうした傾向が多くの動物でも発達していることは、ゾウやイルカ、キツネザルの例を見ればすぐにわかること 他人への思いやりは、進化の歴史のなかで類人猿―人間のラインよりはるかに古くまで遡ることができる
数年前から、自意識と鏡のテストに関する議論がかまびすしい
そこでも注目の中心になるのはやはり類人猿
鏡を前にしたとき、彼らは歯や背中など、普段は見られない部分をじっくり観察したがる
雌のチンパンジーは体をひねって、雄を誘惑するピンク色の性皮をじっくり見る
オランウータンは植物を頭にのせておめかしをする
鏡がなくても類人猿は身を飾る
死んだネズミを見かけると、肩の間にのせて、落ちないように気をつけながら一日中過ごしたり植物のつるを首に巻き付けるといったおしゃれもある 類人猿が自分自身に関心を抱くのは、明らかに複雑な社会と関係がある
彼らの社会では自分がどのように認識されるかがとても大きな意味を持つ
類人猿もビアミ族と同じで、鏡がなくても自意識を持つことができる
社会という鏡、言い換えれば傍観者の目に自分の姿が反映されている
うそをつき、まねをする類人猿
二匹の雄に求愛された雌のグッピーが、そのうちの1匹とつがいを作ると、隣の水槽でも雌が全く同じことをする さきほどの雄2匹を隣の雌に引き合わせると、前の雌と同じ雄を選ぶ
この実験を行ったのは前リカの動物行動学者リー・ドゥガトキンだが、グッピーの雌はつがいを選ぶのに、他の雌の評価をあてにするのではないかと推測した 「彼女がほしいものを私もほしい」原理は、雌は独立した好みを持つというそれまでの実験結果を覆すものだった
隣の水槽に別のタコを入れて、訓練の成果を4通り見せた
新しいタコは、頭と目を動かしながらそのデモンストレーションをじっと観察していた
それから新しいタコの水槽に赤と白のボールを入れると、前のタコと同じ色のボールを攻撃した
つまり霊長類に比べて小さな脳しか持たない動物でさえ、仲間がどんなふうに環境に働きかけているか気づいている 環境の中に存在する色々な対象のなかから、ある対象を身近に感じて、それが置かれた状況をある程度自分に引き寄せて考える能力
それを同一化と呼ぶならば、これは非常に根本的な能力である 同一化ができれば、他者に精神的に接近し、他者を自己の延長とし、他者の置かれた状況を細かく観察して自分も影響を受けたり、情報を獲得することが可能になる
ある個体が、別の個体の行動を正確に真似られるかどうかは、どこまで相手の視点に立てるかどうかで決まる
言い方を変えれば、模倣のレベルは感情移入のレベルに左右される
最も単純な模倣は、その行動がどんな利益をもたらすかは知らないが、ただそのとおりにやってみること
グッピーやタコの行動はおそらくそれだろうし、霊長類も大抵の場合は同じ
チンパンジーの子どもたちは、その奇妙なあるき方を真似しながら、一列になって彼女の後を歩いて遊ぶのが好きだった
また、喧嘩で指が潰れてしまった大人の雄を真似て、手首で体を支えて歩く子どももいた
さらに飼育下にあるチンパンジーは、人間がハンマーやネジ回し、箒を使うのを見て学習する
野外研究の先駆者であるロバート・ガーナーが1896年に指摘していたように、チンパンジーは必ずしも道具の用途を理解しているわけではない ガーナーにのこぎりを与えられたチンパンジーは、「歯の側はぎざぎざしているので、反対側を使って動かしだした……のこぎりの背の方を棒に当てて、高給をもらっている人間よろしく熱心に引き始めたのである」
霊長類が模倣に長けていると一般に思われていて、だからこそ「猿真似(エイピング)」などという言葉がある 普通「猿真似」というとき、それは単なる模倣の意味ではない
だが霊長類がもっと高度な模倣ができるかと言うと、専門家は同意しないだろう
完全な模倣は、モデルの視点を取り入れ、モデルの目指す目標と、その目標に近づくための手法を認識したうえで初めて可能になる
サルに関してはそれを証明する根拠はまったくないと言っていいが、類人猿となると話は別だと考えている研究者もいる
野生のチンパンジーは、石で木の実を割る、枝でシロアリを釣るといった技能を持っているが、微妙な手の動きを習得するには何年もかかる 最も大人のチンパンジーは、何も知らない人間よりは遥かにの見込みが早いと言われている
子どものチンパンジーは、大人の動作をよく見て学習していると思われる
残念ながらこうした例は野外研究者が偶然目撃したものばかりで、学習過程を一貫して観察したわけではない
実験心理学者が飼育チンパンジーを注意深く観察したところでは、そのような高度なプロセスは確認できなかったという
研究者は、他者の様子から情報を得て、それを参考に解決策を見出すことは認める
しかし最終的には、チンパンジーたちは自力で問題を解決していると主張するのだ
模倣を巡る議論は、もっと大きな問題も含んでいる
動物は他者を意志や感情、信念、知識を持つ存在と見なしているのか
お互いを知覚のある生き物と考えているのか
この疑問はそのまま倫理に結びつく
知覚を伴う意図が、道徳的な判断を構成する要素だから
私達の日常生活でも、相手が故意に危害を加えるのか、事故だったのかが大きな意味を持っている
子どもたちも言葉が話せるようになるとすぐに、そういう視点でものを言うようになる
動物がそうした知識や意図を認識しているかどうかは重要
1970年代に、9頭のチンパンジーを対象に実験を行った
食べ物やぬいぐるみやヘビやワニといった怖いものを隠した広い囲いに、一頭だけ入れてその場所を見せておく
その「知っている」一頭を仲間のところに戻してから、全員を囲いに入れた
その8頭の中には支配的な地位にあるロックと、順位は下だが抜け目ないベル(このチンパンジーに隠し場所を教えた)がいた 実験結果にはロックがベルの知識を推測し、裏をかこうとする様子が生き生きと記されていた
ロックがいなければ、ベルはグループを食物の隠し場所に連れていき、ほぼ全員が食物を手にすることができた
しかしロックも加わったところで実験すると、ベルはなかなか隠し場所に近づかなくなった
ベルが食物を取り出すやいなや、ロックが駆け寄ってきてベルを蹴ったり咬んだりし、食物を独り占めした
だがロックはすぐに学習し、ベルが一つの場所に何秒かじっとしていると、すぐにやってきて彼女を押しのけ、その場所を探して食物を突き止めた
とうとうベルは一歩も動かなくなった
ベルは少しずつ離れて座るようになり、ロックが反対方向を探しているのを確認してから、ようやく食物の方に行った
大量の食物を隠したところから4メートルほど離れたところに、一つだけ食物を置いてみたところ、ベルはロックをそっちの方に案内して、ロックが食物を取ろうとしている好きに、たくさんあるほうへ飛び込んでいこうとした
ところがロックが目の前の食物に目もくれず、ベルの監視を続けるので、ベルは癇癪をおこした
ロックがそこまで固執するのは、ベルは何かを知っていて、それを自分に悟られたくないらしいということを認識しているからではないか?
他者の内面を推測したり、見通す行動の研究では、人間の子どもと類人猿を対象にした実験が近年盛んに行われている
逃げ出したウサギを女の子が捕まえて檻に入れその場を去る
男の子がやってきてウサギを檻から持ち出し、持って返ってしまう
「女の子はウサギがどこにいると思っているか?」
正しく予測するためには、自分たちは状況全体を把握しているが、女の子はそうでないことを理解している必要がある
その区別がつくのは6歳くらいから
二人の実験者がチンパンジーに食物の場所を示す動きをしてみせるのだが、一人は場所を知っていて、もうひとりは紙袋を頭にかぶっているのでどこに隠したか知らない
紙袋をかぶった格好がチンパンジーの目にどう映るかということまでは考慮しなかったようだ
チンパンジーは相手によって異なる反応を見せた
目隠しされた人間には、食物の場所がわからないことを理解していたようだ
これがサルとなると、違いはわからないかもしれない
マカクの母子の見ている前で、飼育係がスライスしたリンゴを箱に入れる
次には子どもの仕切りの向こうに移して、母親だけに見えるようにしてリンゴを置いた
二番目の状況では、母親は声をあげなかった
もし子供の視点に立ち、情報がないことを察知していれば、声を出していただろう
こうした実験から浮かび上がってくるチンパンジーとマカクの違いをさらに裏付けるのが、ポヴィネリによる役割の研究
チンパンジーに4つのレバーから一つだけ選んで引っ張るように教える
正しいレバーを引っ張れば、チンパンジーも装置の反対側にいる人間も食物をもらえる
どのレバーに食物がついているか、人間にはわかるがチンパンジーには見えない
ただし人間は、正しいレバーを指差しして教えることができる この取り決めはうまくいき、チンパンジーはすぐにパートナーのヒントに従って行動することを覚えた
これが何度も繰り返されたところで、急に立場が逆転する
今度は人間がレバーを引っ張り、チンパンジーには食物が見えるようになる
実験した4頭のうち3頭は、見ただけで情報提供者としての役割を把握した
一方でアカゲザルで実験をしたときは、一頭たりとも逆転した立場を理解して反応しなかった
新たに起こった偶発的な状況を一から学習しなければならなかった
チンパンジーの高度な認知能力のなかで、一番研究が遅れているのが「欺瞞」である 欺瞞とは、自分の利益のために過去の行為、知識、意図についての事実と違うイメージを巧みに投影させること
自分の行動がどのように理解されるか、外界が自分の行動をどうとらえるかを意識していないと、本当の意味で欺瞞はできない
チンパンジーはその意識を持っているようだ
飼育したり研究している人には彼らが欺瞞を使うことが古くから知られていた
私はアーネム動物園での観察をもとに、チンパンジーがお互いに騙し合う実態を突き止め、1982年に『政治をするサル』にまとめた それまでずっとマカクを研究してきた私は、チンパンジーが騙し合うときの巧みなテクニックは何一つ知らなかった
騒がしい威嚇の仕草が神経に障ると、彼らは不満そうな表情を押し隠し、目や耳で手で覆って何も見えない、聞こえないふりをする
自分の体からシグナルを出さないようにするということは、明らかに自意識の存在との関係がある 嘘というものはあまりしょっちゅうついていると効力がなくなるのが特徴だ
そのため、鮮やかな欺瞞の実例はそう簡単に目にすることができないし、逸話的証拠しか得られないだろう
この分野での研究は批判の対象になってきたが、ユニークな観察例そのものに誤りがあるわけではない
メンゼル「では、大統領や国王や独裁者が国民を欺いたという実験的証拠はどこにあるのか?私が知っているのは逸話ばかりだ」
もちろん逸話には深読みをしすぎる危険性がつきものだから、非難される根拠がないわけではない
だがそもそも、どうしてチンパンジーは他の種に比べて、そうした深読みができてしまうのかを考える必要がある
マカクで欺瞞の実例を集めようとしてわかったのだが、サルに類人猿と同じ解釈はできない
印象的で高度な欺瞞の実例は、ほとんどがチンパンジーによるものだった
さらなる研究が必要なことはもちろんだが、類人猿には鏡による自己認識、模倣、感情移入の表現、意図的な欺瞞といった独特の能力がある
その多様性を見ると、彼らが、進化の歴史のどこかで、重要なステップを一段上がったと考えられるのではないかと考えたくなる
一つ一つの証拠は説得力が小さいかもしれないが、高度な認知能力を示す事例を類人猿全体で眺めてみると、同じ霊長類でもほかの科に属するサルにはない、あっても発達していない性質があるとしか考えられない
アーネム動物園のチンパンジー集団で観察された、自発的な欺瞞の例
例1
そのため威嚇を表すときにグリマスを見せると効果が弱まる 「挑戦者に背中を向けて座っていた雄が、フーフーという声を聞いて思わず上顎の歯をむき出しにした。その瞬間、雄はあわてて唇を指でひっぱり、歯を隠した。同じことが三度繰り返され、ようやくグリマスがおさまったところで、雄はライバルの方に向き直り、威嚇をやり返した」
例2
和解の観察例は枚挙にいとまがないが、有効的な行動が突如として攻撃に転じた例は6つしかない
いずれも年長の攻撃者が若い相手を捕まえそこねた時に起こっており、いざ若者の手の届く範囲に来たときは、異常なほどの厳しい攻撃が待っていた
「オスのような風貌を持つ雌のパウストが、若い雌を追い回し、捕まえようとしていた。この一件はもう終わったと思っていたら、10分ほどして、パウストが雌から少し離れたところで友好的な仕草を見せた。手を広げて、雌に差し出したのだ。若い雌はとまどい、あたりを見回したり、頻繁に立ち止まったり、かすかなグリマスを浮かべたりと不信感を全身で表現しながら、それでもパウストに近づいていった。パウストは突然若い雌に突進して体を掴み、激しく咬み付いてから手を離したのである」 例3
オスの中でも最若手のダンディは、夜になって他の大人の雄と屋内に入ると食物にありつけないことがあった
雄たちがダンディを脅して追い払う
「檻に入ってから餌をやるまでの約20分間、ダンディはとても遊び好きになり、雄全員を巻き込んで遊ぶことも多くなった。飼育係が食物を持ってやってくると、雄たちは跳ね回り、ワラをかけあったり「笑ったり(遊んでいるときに出るしゃがれた喉音のこと)」していたという。こうしてリラックスした雰囲気を作ることで、ダンディは他の雄と並んで餌を食べることができた。明らかにダンディは自分の利益のために、楽しい雰囲気を意図的に作り出したのだ」
例4
順位の低い雄が雌と交尾しようと思うと、支配的立場の雄がよく邪魔に入るので危険がつきもの
そのため雄は密会を試みるのだが、それには雌の協力が欠かせない
「人目を忍ぶ交尾には隠れ場所が必要だし、あからさまなシグナルを出すわけにもいかない。私が初めて目撃した密会の場面は笑いを誘うものだった。ダンディと雌が、目立たないように接近をはじめた。ダンディは、他の雄に見られていないかときょろきょろしながら、雌に求愛しはじめる。チンパンジーの雄の求愛は、まず足を大きく広げて勃起したペニスを見せるのが決まりだ。ダンディが性的な高まりを披露し始めたそのとき、年長の雄のラウトが物陰から突然姿を現した。するとダンディは、すかさず両手でペニスを隠したのである」 霊長類の共感
認知能力が発達しても、別の種類の行動が新たに出てくるわけではない
古くから受け継いできた感情的な基盤に取って代わるのではなく、そうした基盤に働きかけて変質させていく
人間は知性を重んじているので、自分たちは道理に従って行動していると考えがち
自らの理性を過大評価している例
母親が赤ん坊を左の腰で支える「理由」
実際は母親は利き手や文化的背景には関係なく、子供を左手で抱いている
男性にはそういう傾向は見られず、むしろ右腕で赤ん坊を抱くことが多い
母親が左腕に赤ん坊を抱く傾向は類人猿に共通して報告されている 母親は自分の心臓に近いほうに子どもを抱きたがるのが、自然の摂理だという考え方もある それと同じで、共感は言語があって初めて成立するものであり、相手を助ける行為には損得勘定が働いていると考える研究者がいるとすれば、その人は人間の分別を過大評価しており、感情や無意識の動機を軽視しすぎていることになる 「感情移入(エンパシー)」は、今世紀はじめにドイツ哲学界で広く使われるようになったEinfuhlungを翻訳したもの 他人の感情の中に入り込むことを意味しており、このプロセスが個人間のものであり、かつ感情に根ざしたものであることを如実に表している
人間の精神は思考と感情をはっきり区別する線引を持っていないことを心しておくべきだ
人間が他の誰かに配慮する背景には、理性、認知、感情、生理といった幅広い要素がモザイクのように組み合わさっている
この章で取り上げたいのは、人間以外の動物が感情移入に基づいて共感できるかということではなく、人間の「共感」を形作る要素のうちどれが、他の動物にも見られるかということ
社会的な動物であれば、仲間意識は間違いなく存在する
私達が知りたいのは、その仲間意識がどの程度人間のものとにているか
そのうち認知能力の部分は、他の要素よりも救助傾向を正確にす色づけることとのつながりが深い
イギリスの哲学者フィリップ・マーサー「他人を助けるやりかたには、適切なものも不適切なものもある。相手に共鳴すればするほど、その人が必要としている手助けを与えられると考えるのが自然だろう」 本当に必要としていることに合わせて自分の援助を微調整することができる
すべての思いやりの行動を支える要素に、相互の愛着がある 彼らは協力して狩りをするし、また敵や捕食者に対しても力を合わせて身を守るからだ
個体が生き延びられるかどうかが他の仲間にかかっている以上、救助行動や愛情の結びつきが発達するのは当然だろう
同じ種の中で他者を助けたいという衝動は、他者に助けてもらいたい欲求に匹敵する
イギリスの動物学者アン・ラサは、慢性の腎臓疾患にかかった低順位の雄の最後の日々を追跡した この雄が属していたのは、最初に飼育されたつがいとその子孫で構成されるグループだった
観察していたあいだに、2つの変化が起こった
まず病気の雄が、順位を飛びこえて早めに餌を食べられるようなった
父親である第一位雄が食べているのと同じ餌を食べていても追い払われることはなくなった
病気の雄が箱のような高いところに登れなくなると、グループ全員が床で寝るようになった
病気の雄へのグルーミングの回数も増え、何かに付けて接触を試みる
この雄が死んだあと、グループは死体に寄り添って寝て、それは死体が腐って片付けられるまで続いた
感情を移入するときに必要な能力で、愛着の次に基本的なものが感情の伝染
最も単純な形では、自分の感情と他者の感情がまったく区別されずに同一化する
新生児室の赤ん坊が他の子につられて泣くことがあるが、これは感情に触発されたとは考えにくい
むしろ、個々の体験を伝える中継基地のないコミュニケーション網があって、赤ん坊はそこに接続し、どこから泣き声がするか教えてもらっているという感じ
赤ちゃんたちは苦しい時、嬉しい時、眠い時に自分を「見失い」、他の子と歩調を合わせるらしい
最も重い脳を持つ動物でさえ、世話の行動は生まれながらに持っているリリーサー(触発因)に依存していると思われる 触発因とは、その種のすべての個体が自動的に反応する具体的な刺激のこと
かさぶたができているときにチンパンジーに近づくと目を輝かせながら触らせてほしいとせがむ
それを許せば、彼女は興奮のあまり歯をガチガチ鳴らしながら、かさぶたをはがしはじめる
もう一つの重要な手がかりは、幼児的形態と呼ばれるもの 幼児特有の特徴を見て優しい気持ちになるのは、私達人間に限らない
消極性や甲高い声といった、依存性を示す特徴を付け加えれば、保護と配慮を喚起するおぜん立ては完全に整ったことになる
さらに接触の拒絶や悪さへの懲罰といった、普通は年長の子どもに対する行動も禁じられる
アザレアやワニアが受けた特別扱いも、こうした特徴のおかげかもしれない
野生状態でも特別な配慮が長く続いた例がある
ベネズエラのジャングルで、足が半分麻痺したオマキザルの子が生まれた このサルは木に登れても飛び移ったりできないので、木から木に移るには誰かに運んでもらわなくてはならなかった
オマキザルは母親以外の者が赤ん坊を運ぶことが多いのだが、ジョン・ロビンソンによると、この群れは、足の悪い子どもを通常の年齢を過ぎても運んでやっていたという ただ問題は、この子どもの食欲がまったく正常だったということ
体重がどんどん増え、体格も大きくなっていく子どもはしだいに負担になっていった
それでも群れの仲間は、丸々と太った子どもを運び続けていた
しかし17ヶ月目になったところで、足の悪い子どもは姿を消した
どんなふうに命を終えたのかはわからない
愛着、感情の同一化、生まれながらに持つ反応に高度な学習能力が加われば、ときとして人間の共感表現と区別するのが難しいほどの精巧な世話行動のための基盤が整う
人間の場合、他人の経験はあくまで他者に属するものと認識しているし、そうすることでしか相手を心から気にかけることはできない
自分のアイデンティティを失うこと無く、他人に自分を重ね合わせ、気を配るのが人間の共感の肝腎な点
今まで見てきたように、それはある種の認知能力、なかでも自己の感覚を充分に発達させた上で、他人の視点に自分を置き換える能力が必要になる
動物は他人の視点に立つことができるか
サンディエゴ動物園では、ボノボを飼育しているのは洞窟のような囲いで、そこは深さ2メートルの空の濠で外と仕切られていた 濠には鎖がたらしてあって、ボノボたちは自由に底まで降りたり、また登ったりすることができた
最高順位の雄のバーノンが濠に降りると、若い雄のカリンドがすかさず鎖を引き上げて、口を大きく開けたふざけた表情(笑いに相当する)でバーノンを見下ろし、濠の壁を手で叩いた
ときにはもう一頭のおとなであるロレッタが「救出」にやってきて、鎖をおろし、バーノンが脱出できるまで見張っていることもあった
カリンドもロレッタも、濠の底にいる者にとって、鎖がどういう役目を果たすか知っていて、その上で行動した
アーネム動物園のチンパンジーは、冬は屋内で過ごす
飼育係は毎朝ホールの掃除をすませたあと、何本かあるタイヤに水をかけ、木登り枠から水平に伸びる丸太に重ねてひっかけるのが習慣になっていた
ある日クロムという奇形のチンパンジーが、内側の水のまだたまっているタイヤに興味を持った
ただしそのタイヤは一番奥にあり、その前に6個以上の重たいタイヤがひっかかっていた
クロムがタイヤはずしを諦めてその場を去るとすぐに、7歳の雄のチンパンジーのジェイキーがやってきた
ジェイキーが幼かったとき、クロムは「おばさん」役(母親以外の保護者)を務めていた
知恵の働くチンパンジーなら誰でもやるように、丸太の一番手前からタイヤを外していった
最後のタイヤを水が少しもこぼれないように慎重に外すと、ジェイキーはおばさんのところに持っていき、目の前に立ててやった
動物の世界で協力は広く行われているので、同じ種の仲間に手助けするという特徴は目新しくもなければ、独特のものでもない
だが、その支援が他者にとって持つ意味を思い描けるかどうかで、背後にある意図は変わってくる
ジェイキーはクロムが何を欲しがっていたか理解しており、タイヤを出すことで彼女の役に立とうとしたのだろうか
他人の視点に立つことによって手助けすることは、認知的利他現象、すなわち他者の利害をはっきり念頭に置いたうえでの利他現象にがらりと姿を変える
相手を傷つける喜び
ゴンベ国立公園のチンパンジーに、人間から伝染したと思われる小児麻痺が流行ったことがある 体の一部が麻痺してしまったチンパンジーは、まるでコミュニティの一員でなくなったかのように、仲間の恐怖と、無関心と、敵意の対象になった
ジェーン・グドールによると、チンパンジーのペペも使い物にならない腕をひきずりながら再びキャンプに姿を現したとき、そんな対応をされたという 他のチンパンジーたちは顔いっぱいに恐怖のグリマスを浮かべ、互いに元気づけあった ペペも自らも恐怖のグリマスを見せて、何度も肩越しにいま来た小道を振り返っていた
健康なチンパンジーたちは、小児麻痺にかかったペペや他のチンパンジーが手足をひきずり、奇妙な動きをしていたので最初は避けていた
やがて攻撃的な仕草をするようになり、ついには本当に攻撃を始めた
グロテスクな奇形を避ける心情は理解できなくもないし、感染の危険を考えると納得もいく
同情や哀れみといった特徴が際立つ動物から、場合によってはそんな性質がすっぽり抜け落ちる例はいくらでもある
それまで仲良く移動し、グルーミングをしあっていたチンパンジー同士が、凄まじい暴力をふるいはじめることもあるし、コロブスモンキーなどの獲物を捕まえると、まだ生きて悲鳴をあげているうちから手足をもいだりすることも珍しくない チンパンジーはどんなに抑制を働かせ、豊かな感受性を持っていても、別の興味があればそれらは簡単に打ち消されてしまう
もちろん同じ種の仲間への態度と、異なる種への態度を同列に扱ってはならない
スー・ボインスキーが野生のオマキザルを観察していたところ、一頭の雄が怒って手当たり次第にものを彼女に投げつけ始めた いよいよ投げるものがなくなると、雄はたまたまそばに座っていたリスザルをつかみ、枝か何かのように投げた 垣根の向こうにいるニワトリをパンくずでおびき寄せる若者がいる つられて近づいたニワトリを棒で叩いたり針金で突かれたりする
チンパンジーは捕まえるためではなく純然たる遊びでやっていた
段々やり方が巧妙になって、おびき寄せる役と、攻撃する役を分担するまでになった
感情移入と対局にあるが、ちょうど共感とサディズムのようにたがいに関連している言葉だ 映画やコメディで、人は他人の不幸を見て楽しんでいる
他人の災難を眺めることで自尊心をくすぐられたい欲求は、それほど私達の奥深くに根ざしているのだろう 日常生活では、嫌いな相手に対してこういう感情が出る傾向がある
他人の災難を喜ぶ気持ちは、おそらく公正感に端を発しているのだろう
威張りくさった人や不誠実な人が財産をなくした時など、当然の報いだと思うのは大いに考えられる
貧しい一家が火事で焼け出されたとか、子どもが階段から落ちたという場合は、傷つける喜びは感じない
彼らは自尊心を脅かさないからだ
傷つける喜びは共感のちょうど正反対にあたる
東アフリカのイク族の話だが、飢餓が高じて非人間的な状態になったという 人々は他人の不幸にしか喜びを見いだせなくなった
弱いものや盲人が転んだり、老人が乱暴な若者に食物を奪われたりすると、みんなが金切り声をあげて笑う
若者たちは老人たちの口をこじあけて、まだ飲み込んでいない食物まで奪った
子どもさえ嘲笑の対象になった
ターンブル
「道徳も贅沢の一つだ」
「道徳といえども、あくまで自分たちにとって都合がよく、許せる範囲のものでしかない。それが伝統になったのは生活に余裕があったからだ」
過酷な状況によって愛情や共感が追い払われたあと、頭をもたげてくるのは自分本位の態度だけではない
他者の苦痛を喜ぶ感情まで出現する
幸運だろうと不運だろうと、人間は運命が均質化することに喜びを感じるのだろうか?
満ち足りたときは、不幸な境遇な人を探して幸せになることを望む
自分が餓死するかどうかの瀬戸際にあれば、どんなことでもいいから周囲の不幸を見つけ出そうとする
苦境にあるのは自分だけではないと思える
共感と公正さにどんなつながりがあるかはどんなつながりがあるかは、まだ充分に研究されていないが、自分本位との関係は以前から注目されてきた この2つは社会性の両極端に位置するわけだが、これまでは両者間の緊張に注目するというより、どちらか一方、普通は利己主義の方に集中的に論じるきらいがあった
そういう把握の仕方では実りのある議論は生まれないと思っている
目の前のテーブルに食物が満載されているとき、お腹をすかせたあなたが窓をノックしたとする
招き入れて食べさせても、独り占めしても、私の行動は自分本位と言われるだろう
あなたの立場や社会全体から見れば、同じ自己利益の追求でも性質はがらりと変わる
大抵の行為はそれによって行為者が受ける影響が見返りとなる
しかし共感から出た行為に限っては、受け手への影響を行為者が想像することが見返り
ロバート・ワイスたちは他者を苦境から解放することが、反応を引き起こす刺激になるのではないかと考えて、人間を対象に実験を行った 「利他的行動の根源は非常に深いところにあるので、人は他人を助けるだけでなく、その行為には報いがあると感ずる」ことを確認した ただしその見返りは、相手の幸福が実現してはじめて得られるもの
だとすれば、共感の行為に満足感が伴ったとしても、共感とは別方向にある自己本位の性質が貶められるわけではないだろう
泣いている子どもをなだめ、抱きしめ、優しくなでてやるとき、私達は同時に自分自身をも安心させている
本当にそうならば、セックスや食事と同じように、共感することで何らかの報酬が得られるのはごく当然
共感は私達の中にしっかりと根ざしている
そのため共感が失われるのは、きわめて極限的な状況に限られる
ターンブルが観察したイク族の村では、彼から食べ物をもらった老女が突然泣き出した
誰もが親切にしあって暮らしていた「古き良き時代」が懐かしいという
人間の道徳性を育み導くのはこの慈愛の気持ち
お互いのことに興味を持つ仲間意識がなければ、困っている誰かに助けの手を差し伸べる行為は義務として根付いたりしない
まず道徳的な感情ありきで、決まりはあとからついていくるもの
だが危急のときには、感情のほうが強い
道端に倒れて死んでいた人の前を、まず僧が、次にレビ人が通りかかった(どちらも信心深く倫理意識の高い人たち)がどちらも知らん顔で、手当をしたのは三番目にやってきた宗教的には見捨てられたサマリア人
聖書のこの逸話は、倫理は書物ではなく心で学べと教えている
新学社の卵たちのうち、うなだれてうめき声をあげている人に手を貸そうとしたものは全体の40%にすぎなかった
急がされたグループはは時間がたっぷりあるグループに比べて手助けをしなかった
利他現象が高く評価されるのは、犠牲を強いられ、ありとあらゆる制限や条件を引き受けるからにほかならない
他の利害や義務のほうが優先されることもあれば、負担が重すぎると利他的行為そのものが起こらないかもしれない
共感はすぐに喚起されるが、忘れられるのも早い。共感が意識されながら行動に結びつかなかったときも、もっともらしい説明がすぐにつく。一人の子どもが飢えていると、私達は優しい気持ちになる。しかしそれが何千人もとなると、冷淡になるのだ。
人間が共感を覚える相手は無限ではない
自分の家族や親戚にはすぐに共感することができるが、同じ共同体でも血のつながっていない人だと反応はいくらか鈍くなる
これがよそ者ともなると、たとえ共感したとしてもさらに腰が重くなるだろう
動物の救助行動にも同じことが当てはまる
共感と救助行動は、認知と感情という基盤が同じだけでなく、発現の程度差も共通している 他者を思いやる能力は相手を選び、壊れやすいものだが、それでも私達人間の道徳システムの基盤になっている
過去の哲学者、心理学者、生物学者は人間の精神を快楽という枠に押し込めようとしてきた
しかし共感だけは、この枠にうまくはまってくれない
配慮の能力を守り育て、範囲を拡大させて、奨励する必要のない他の人間の特徴とうまくバランスをとることが道徳性の大きな役割のひとつなのかもしれない